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2011.05.26 春日山城攻め
だいぶ久しぶりの更新w

先日の合戦で火チケット2連続で極がでてしまった@@;
こ・・こんなことがあるのかw
火チケ極

もしやと気づき、このままの勢いで2万円分課金を行った・・・

気になる結果は・・・・・


_| ̄|○ il||li

特が4枚だけだとぉぉぉぉぉぉ!!!
30回以上くじ引いてこの結果・・・・・w
欲を出し過ぎるとよいことがない。久しぶりにIXAに教えてもらったよw


さてさて、今月攻略するお城は

春日山城
春日山城

そうです。
大人気の上杉謙信の居城として有名です。
正直私は行ったことはありませんw
なぜ、今回取り上げたかというと
春日山城、謙信時代一度も攻められたことがないんですってw
ならば!私が攻めないで誰が攻めるというんだ!(空想世界ですがw)

それではまずはお城のスペックから
Zu.jpg

図で見て変わる通り
春日山城は山全体要塞化したお城とわかります。
ではなぜ?一度も攻められなかったのでしょうか?
甲斐の虎、武田信玄、北陸攻めの織田軍『かかれ柴田』こと柴田勝家もいたのですが・・

いろいろと調べていると
謙信の軍略、というか戦術観が見えてきます。つまり、信長や信玄と同じく、謙信にとっての戦とは、城に籠って迎え撃つのではなく、敵地に踏み込んで行うものだったということではないでしょう。
なるほど『攻撃は最大の防御』ということですかw
また土地柄上の優位もあると思います。北陸の越後(新潟県上越市)
冬場は大量に雪が積もり、どの大名も冬場は攻められなかったと思います。
あの秀吉も柴田との戦中は雪で足止めを想定して長浜城を攻め込んだのですから。

しかし悲しいかな、関ヶ原の戦いで敗れた上杉景勝が、会津に移動させられ、春日山城は堀秀治におさめられましたが、政治を取り仕切るに不便ということから春日山城をあっさり見限り、別のお城を作ってしまい、春日山城はお城としての役目を終えたのです。


ではここからは考察でw

見ればわかるとおり、両方崖となっているのがわかります。
Pan1.jpg
つまりは側面から侵略はできないのでw(まあやろうと思えばできなくはないかな^^;)

正面からの雪崩れ込み作戦!

前途で話している通り上杉謙信は一度も守りについたときはありません。野戦や城攻めがメインです。
城での防衛はきっと苦手だと思います!(勝手な想像w)

謙信得意の車懸りの陣もこんな狭いところでは使用できないですし。

では右端の大手道から一気に攻め込みましょう!
途中に、

小島 小島さんや

柿崎 柿崎さんや

宇佐美 宇佐美さんの

お住まいがあるかもしれませんが、
略奪の後におうちを放火してあげましょう(´∀`)

立体的にするとこんな感じ
春日山立体図


たぶん景勝というとことに上杉謙信が立て込んでいると思われますので
(回りもひときわ広い作りになっているので)

しかし、ここでは一気に侵略をストップします。
上杉謙信のことですからきっとなんらかの作戦を練っていると思いますので。

ここではまず春日山神社まで後退します。
ここから罵声などを浴びせて挑発させてもよし!
声をあげて士気を下げてもよし!
二手にわかれて挟撃してもよしです!

道が細そうなのでどうしても部隊が縦一列になりがちです。
謙信ならばその隙を狙わないはずがありません。

お城と言っても大半が山なので、土地を有利に使ったほうが勝機が増します。

まあ、簡単ですがこんなところでしょう。

まあすべての城攻めに言えることですが、私がこんなに想像ができるというのは
地形や城の地図がすでにあるから作戦を練りやすいということです。

やはり城攻めに関しては、情報戦がすべてですので
忍びにより偵察や、他国の状況を聞いたりすることが一番の近道なのかもしれません。
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2011.04.21 大阪城攻め
さてさて、日がだいぶ空いてしまいましたが、
私の独断と偏見で勝手に攻略しております、城攻めシリーズ第3弾、

大阪城

大阪城


豊臣秀吉の居城として名高い名城中の名城

姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられているほど、訪問した際のインパクトは尋常ではない。
まあ、個人としては姫路城のほうが好きですが、熊本城?
・・・いったことないっすww

さすが名城というだけあって広いw
大阪城地図

(よしよし、トイレは充実しているな(*^_^*))
私は、天守閣は上がったことはないのですが、昨年大阪城ホールで長渕のコンサートみましたw
今度暇なとき天守閣上がってみようw車で1時間w

行ったらわかりますが、堀だけでもかなり大きく、湖かと思うほど、塀はかなり高くほんと侵入させないような作りになっています。
良く、石川五右衛門(ルパンじゃないよw)寝室まで侵入できたなwフィクションだけどw

好例ですが、
閉館時間
午前9時から午後5時まで(最終入館は午後4時30分まで)
GW(4/28-5/8) 午後6:00まで

気になる料金ですが
大人 600円
(さすが大阪人、商売上手ですな)




攻略はシンプルです。
戦国時代以外の現代でも何度も攻められております。

たとえば、

ゴジラ

83e6b8a8952cde779e64a27c1d48a3b4.jpg


ゴモラ(ウルトラマン)

img852_GOMOLLA6.jpg



・・・・・・・


フィクッションかよ!!!







冗談はさておき
もちろん大阪城が主戦場になったのは

大阪の陣
徳川秀吉率いる諸大名軍VS豊臣秀頼率いる浪人軍
時期は冬、夏とありますが、
冬では
徳川軍約20万と豊臣軍約10万との戦いで豊臣軍が優勢だったと聞くほど
なぜここまでの兵力差で優位に持って行けたかというと
まず下の布陣図を見てください。

冬の陣

見ていただくとわかるように、徹底した籠城戦を展開した。
なぜかというと、豊臣軍は浪人中心の寄せ集め集団であった。
もちろん、天下に名を知らしめた真田信繁(幸村)等もいましたが、
寄せ集めの集団だけに統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元と考えられたからだ。

そこで、二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城。さらに周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城にして籠城する作戦を取った。

時期も冬ということもあり
豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、圧倒的な兵力があだとなって次第に士気が下がり、さらに厳しい寒さが兵士の体力を減らしていき、なかなか堅固の大阪城攻めきれないでいた。

しかし、豊臣方も同じく兵糧に加え弾薬の欠乏や徳川方が仕掛けた心理戦、大砲で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、また豊臣家で主導的立場にあった淀殿も本丸への砲撃で身近に被害が及び、態度を軟化させて和議に応じた。

講和内容は豊臣家側の条件として

〇本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事。
〇淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事。

これに対し徳川家が

〇秀頼の身の安全と本領の安堵。
〇城中諸士についての不問。浪人の解雇、豊臣家の移封

圧倒的徳川有利の内容で話が進み、これで夏の陣は終戦した。

が!!

翌年5月にまたいざこざにより
徳川軍と豊臣軍が衝突してしまう。

和議による一部浪人の解雇によりこの時の豊臣家の戦力は7万8千に減少し、さらに丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利で豊臣軍が勝てる要素が全く見当たらない。

夏の陣

布陣図を見たらわかりますが、豊臣軍は
玉砕覚悟の突貫を決行するのです。

その時歴史
(もうこの時点で主旨が変わってきていますねw)

「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」
と言われる程に真田幸村の快進撃が始まるのです。

「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。また家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記である高山公実録にも「御旗本大崩れ」と記され、藤堂勢は一応の応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無く、ほどなく家康は本陣を捨ててしまい、高虎自身も、家康の安危を確認できなかったと振り返っている。後に真田隊の猛攻を恐れ、家康を残して逃走した旗本衆の行動を詮議した

本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。しかし、最終的には軍勢で勝る徳川軍に追い詰められた。

しかし、幸村も人の子、たしか休憩中(近くの神社)ないし兵士の看病中に敵の奇襲にあい、お亡くなりになりました。
たしか、その後、徳川の兵士たちにすごい武将ということで髪の毛を軒並み抜かれたほど。

この一件により、真田の名は後世まで残り、江戸時代に真田十勇士とう小説ができ、宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。
かなりの人気が出たそうです。


かなり熱弁しましたが、
ここからは私の攻略考察
先でも述べていますが、かなりの強固なお城であり、徳川軍が堀を埋めたとおり
この堀を何とかしないことには話になりません。

私の場合、堀に船をいれ、陸と堀(水上)の下から攻撃を仕掛けようと思います。
(ほんとそれほど堀でかいんですって!)
もちろん船に屋根がないと集中砲火をくらってしまいますので鉄砲が防げるぐらいの鉄製の屋根が望ましいです。

そんなんで攻略できるか?と思いになられる方がおられるかもしれませんが。
たぶん無理でしょう。
本当の意はまさに相手の物資(弾、弓)の消耗が目的であります。

三国志の赤壁の戦いでは諸葛孔明が無人の船で30万本の弓を調達したと聞きます。
調達すること=相手は消耗なので
一石二鳥とはこのことでしょう。

戦国時代の主な戦死者は弓や鉄砲という飛び道具なので。
その物資を減らすことにより、戦局を有利に持って行けるのです。
飛び道具を持たない兵などただの的ですのでこちらは思う存分撃ち込みましょう。

次に豊臣軍は浪人の集まりです。
徳川軍に恨みを持っている人間、この戦で名前を売ろうとした浪人など様々いたに違いありません。
豊臣軍も徳川の大軍の前に少しでも兵士が欲しいと思っていたと思います。

では徳川軍から浪人を装って大阪城内部に潜入させてみては?
その潜入したものに莫大の地位と名声を与えることを約束すれば大抵は立候補してくるのではないでしょうか?
外がだめなら内部から。

徳川軍も真田幸村など調略していましたが、そりゃする相手が違うでしょw
かなり家康は幸村に恨みを買っていたのですから。

まあ、すべての攻略は不可能に近くても、堀の内部の橋の一つや二つ占領して、外部に待機している徳川本軍の足掛かりになるに決まっていますから。
中に入ってしまえばもうこちらのものというわけです。

まあ、考察するのは簡単ですが、実際戦場にいったらうまくいくかな@@;w

最近 テンション(なぜだ@@;w)が上がってきたのでブログを更新

昨日、某飛行機の中の本を見ていると高天神城の特集があった・・
かなり勉強になりました^^

どうやら、武田家の滅亡のフラグは
武田勝頼が高天神城を陥落させたことを好い気に武田内で調子にのっちゃたことが原因のようだ^^;
信玄がおなじ兵力で攻めても落とせなく、勝頼が信玄に対抗してか同じ兵数で攻めたら落とせちゃって、図に乗り家臣たちの言葉に耳をかさなくなってしまったそうだ・・
ここで辛勝などで勝っていたら内部分裂をしないで、
そのまま長篠の戦いに突入し、完敗ではなく撤退による敗北(損害軽微)で進んで、織田家を追いつめられる勢力になっていたのではないでしょうか?なんせ武田二十四将がいるのですから・・・・w

では話を本題へと・・・・

鶴ヶ城

turugajyou.jpg

みなさんは鶴ヶ城というお城はご存知でしょうか?
全国的には会津若松城と言うほうが正しいみたいですが。
今回災害にあわれた東北の福島県のお城です。

というのも、子供のころは地元がこっち方面だったので、
学校の旅行と言ったら決まって会津若松城でしたがw
子供のころは武道も習っていたので夏の大会は毎年ここの体育館で試合を行っていたので
私自身、人生で一番訪れた城です^^v

会津若松城というと正直戦国時代ではほとんど表舞台には立っておりません。
一番のバブル期は幕末です。
新撰組は会津藩の管轄に入っているほど。
また、少年兵などで構成された白虎隊というのも有名なのではないでしょうか?

戦国時代では蘆名盛氏が城を拡大したと言われております。
蘆名盛氏

伊達政宗は、蘆名氏と連年戦いを繰り返した。1589年(天正17年)政宗は、豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。

ほんとう戦国時代は微妙ですね・・・
戊辰戦争のときは新政府軍の攻撃を1か月をも守り切ったのに;;

見取り図としてはこう
turugajyou1.jpg

トイレが少ない@@!!
・・・・・・・

そうそう、忘れるところでした
天守閣の入場料は大人400円です!
開城時間
午前8時30分~午後5時まで
(入城締め切りは4時30分)
なのでお気をつけて

そして一番気を付けてほしいのは、時期によると
クマバチアシナガバチが大量発生しているということだ!!
800px-Kumabachi1.jpg
小学生時代にはこいつらに恐怖感を植え付けられた記憶がある・・・・

しかしWIKIを見ると温厚・・・・w
オスには針がないだと@@!!
小学生時代の恐怖はなんだったんだ・・・・・w

では攻め考察ですが、

上記地図で見る通り
内郭の中央に本丸があり、その北及び西側を取り囲むように帯郭がある。内濠を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸があり
かなり行ってみると迷路?のような感じがします。
外部は大きな堀もあり、塀も高いのでそこから矢やら鉄砲など打っていたのでしょう。
三ノ丸、二ノ丸を進んで本丸に進まないといけないのでかなり損害がひどくなると思われます。

やはり幕末で攻めたやり方が一番手っ取り早いと思います。
それは遠距離からの砲撃!

卑怯?
戦いに卑怯もへったくれもあるか!と思いますが。
一番効果的ですね。

大阪城を取り囲んで砲撃の雨嵐をお見舞いした大阪の陣ではかなり良い結果がでています。
砲撃は当たれば威力絶大ですが、外しても砲撃の音で兵士は恐怖におびえ戦意を失うとされるからです。

会津若松城に戻しますと、幕末の砲撃で天守閣など崩壊寸前まで追い詰めたそうです。

まあ別案としては、行ってみるとわかりますが、姫路城や大阪城ほど規模は大きくないので
圧倒的物量で攻め込めばある程度短期間でせめおとせるのではないでしょうか?

ぱっと見た感じで致命的だと思うのは
本丸と二ノ丸の間にも堀があるということ。

なぜ本丸、二の丸、三の丸つなげなかったのかな?と
橋でつながっているので、
船などでここより攻め込み本丸と二の丸らを分断して各個撃破しながら戦力減らしていけばそれこそ数日で陥落しそうですけど^^;


≪白虎隊早とちり≫
戊辰戦争時代で少年兵による白虎隊ですが、会津若松城から近い飯盛山で撤退しますが、そこから眺めた戦闘による市中火災の模様を、若松城が落城したものと誤認して悲観、その結果総勢20名が自刃を決行した。
本当は城は燃えていなかった・・・・

君たちの死は無駄死にではないぞ。
2011.03.22 岐阜城攻め
ぱっと思いついたので投下します。

私個人は城を見るのが好きです。まあそんなにいろいろ見たわけではありませんが・・・

城好きなひとの理由としては
・戦国時代が好き
・城には男の浪漫がある
・歴史が好き
・プラモデル好き
とまあありますが、私としては

時代は違えど実際に戦国武将と同じ場所にいるということだけでもヨダレもんですよ(^¬^*)ジュル
また、軍師だったらどう城攻めしたりしたら効率が良いか考えることも醍醐味の一つであります。
(けっして変人じゃないよ~(; ̄Д ̄))

それではまず第一回目は個人的に一番好きな
岐阜城!!
岐阜城1

そうです。織田軍に所属している君ならわかるでしょう。
織田信長の居城です!

岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として国の史跡に指定されている。

で何がすごいって?

ふふふふ


なんとこの岐阜城の天守閣に行くには
金華山ロープウェー運賃 大人(12歳・中学生以上)往復1,050円

でいくのだ!!

?というひとは図で見てもらうとわかりやすいです。


岐阜城

この山(金華山 標高329m)のてっぺんにあるのが岐阜城です・・・・
はじめに作り始めた人(二階堂行政)何考えているのだか・・・・w

そして今は頂上のロープウェイ乗り場にはなぜか?

リス村がある!!

さてさて話がそれてしましましたが、あくまで城攻め考察で立てたカテゴリの為本題に・・・

現代では


ボタン 



ポチ


















原爆

これで一発ですが、戦国時代ではそうはいきません。


画像でもわかるようにこの山城は戦国時代では難攻不落と言わしめたほどです。
(戦国時代のイゼルローン要塞と言いましょうかw)

ではどうやって信長は岐阜城(稲葉山城)を落としたのか?
それは
内部から壊していった。つまりWIKIから応用すると
信長は斎藤家の有力な家臣でいわゆる西美濃三人衆と呼ばれる稲葉良通(一鉄)、安藤守就(道足)、氏家直元(卜全)の内応工作を進め、また稲葉山攻略の重要地である墨俣の支配を進める。西美濃三人衆が内応を約束し、人質を受け取ってくれと連絡してくると、信長は村井貞勝・島田秀満を受け取りに向かわせつつ、すぐに兵を集め、美濃へ攻め入った。突然の侵攻に龍興は何もできず、信長は城下の井口まで攻め入ってこの町を焼き討ちし、稲葉山城を包囲した。龍興は城を脱出して長良川を下り、伊勢の長島へと脱出する。城主の逃亡によって稲葉山城は陥落し、大名としての斎藤氏はここで滅亡した。

つまり信玄の名言にあるように『人は城、人は石垣、人は堀』にあるように
いくら巨大な城や軍事を持っていたとしても、最後は人次第ということです。

さて、ここからが考察ですが、
まず狙うのはこの2点
・山頂にある
・山が木で生茂っている

①山頂にある

もちろん山頂にあれば戦局を有利にもっていくことができます。なぜかというと
映画とかで上から銃で狙いやすく、下からだけ角度の関係で当たりにくくなっているからです。
戦国時代でも弓や火縄銃でも同じことですね。
又、上から見たほうが戦局を把握しやすく、敵の行動を監視できるからです。

ですが、今回の金華山ですが、標高が高く、平地に山が一つある状態なので戦時中は上記項目は有効に活用できなかったと思います。
なぜ、難攻不落かというと山頂が高いので、攻める際にはかなりの疲労がたまると思われます。そこを狙い撃ちされたのでしょう。

攻めにくい?たしかにそうでしょう。
こんな山私でも徒歩ではいきたくないのですから。
何が言いたいのかというと
こちらも攻めることがむずかしいので相手も援軍(補給)がむずかしいと考えるのです。
なのでわたしが提案するのは持久戦
相手の食糧がなくなるまで岐阜城と全方向から兵で囲んでしまい孤立させればよいのです。

②山が木で生茂っている

①でもし城に食糧が大量にあったらどうするんだ?と不安になるあなた!
そんなあなたは秋に城攻めを行いましょう。

画像で見る限り木が生い茂っており、確実に岩山ではありません。
秋と言えば食欲の秋、さつまいもの季節ですね。

たき火だ♪たき火だ♪落ち葉たき~♪

そうです!
つまり火攻め!!

秋がくれば落ち葉や枯れ葉がたくさん落ちています。
火はある程度の風があると火災疾風という現象が起こり瞬く間に広がります。

火災疾風とは
火災が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じる。これによって、燃焼している中心部分から熱された空気が上層へ吐き出され、それが炎をともなった旋風になる


上記でのべているとおり平地に山一つなので風上をみてどの地点からでも火攻めが可能なのです。

まあこんなことでしょうw
難攻不落と言っている割にはいままで7回も陥落しているのであまり難しそうではなさそうですしね^^;

ではではまた機会がありましたら^^ノ
みなさんも是非城を観光する際は如何にして落とすか考えてみてもおもしろですよ~^^
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