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三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人(うち織田信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。

信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康の歴史的大惨敗かつ唯一の敗戦として有名な戦である。


クロロのあおりで徳川家康は全軍で浜松城を出発した。

信秀 『トホホwまさか武田と本当にやることになるとは・・;;しかも大軍w』
織田信勝 『武田軍の背後をついての奇襲作戦ですからね、さいわいこの土地は徳川勢有利と言うことですね。』
クロロ『だといいのですが・・・』

徳川家康『武田軍が背後をつき、武田兵たちが反転し攻撃準備する前にたたく!相手はいきなりの奇襲であわてふためて、兵達がばらばらになったところに信玄の首をねらうぞ!』

徳川家康『我々は鶴翼の陣でかこむぞ!』

鶴翼の陣・・・
両翼を前方に張り出し、「V」の形を取る陣形。魚鱗の陣と並んで非常によく使われた陣形である。中心に大将を配置し、敵が両翼の間に入ってくると同時にそれを閉じることで包囲・殲滅するのが目的。ただし、敵にとっては中心に守備が少なく大将を攻めやすいため、両翼の部隊が包囲するまで中軍が持ち堪えなくてはならないというリスクも孕んでいる。

家康は兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。

織田信勝 『この森をぬけると三方ヶ原ですね・・』

徳川家康『全軍前進!!』





しかしそこにはすでに反転していた武田軍が魚鱗の陣で待ち構えていた・・・・
魚鱗の陣・・・・
全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊(密集陣)を単位として編集することで、個別の駆動性を維持したまま全体としての堅牢性を確保することから魚燐(うろこ)と呼ばれる。
多くの兵が散らずに局部の戦闘に参加し、また一陣が壊滅しても次陣がすぐに繰り出せるため消耗戦に強い。一方で横隊を要素とした集合のため、両側面や後方から攻撃を受けると混乱が生じやすく弱い。また包囲されやすく、複数の敵に囲まれた状態のときには用いない。特に敵より少数兵力の場合正面突破に有効である。対陣のさいに前方からの防衛に強いだけでなく、部隊間での情報伝達が比較的容易なので駆動にも適する。

つまり三方ヶ原では現状こんな構図となっている。

新しいビットマップ イメージ

信秀 『どしぇぇぇっぇぇぇぇっぇぇぇ!!@@!!』

徳川家康『た・・武田め。よ・・よんでいたのか・・・?』

武田信玄『全軍、すすめ。』
その合図で、武田全軍は徳川・織田連合軍に襲い掛かった・・
圧倒的な兵数と甲斐の武田というブランド力に、徳川・織田の兵士達は恐れ身動きすらできなかった・・


信秀 『この混乱に乗じてにげるぞ!』
クロロ『わかりました。』

しかし・・・そのとき
一矢の弓が飛んできた・・・・

グサ!!
『ぐはぁっぁ!』


信秀 『だれだ!だれがやられた!?』

タケナカ 『ぐふぅ!ど・・ドジッちまいましたや・・』


・・・・・・・・・・


信秀 『撤退!』
タケナカ 『無視@@;!!』 
クロロ『おししょぉぉぉぉぉぉぉぉさまぁぁっぁぁぁぁ!!TT』
織田信勝 『いつからやねん』

タケナカハンベエ 戦死

武田軍の死傷者わずか200人に対し、徳川軍は2,000人の死傷者の徳川軍の一方的な敗北となった。
徳川家康はというと夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。
後の伊賀越えと並んで家康の人生最大の危機とも言われる。
尚、この時あまりの恐怖で脱糞したのも有名なお話

あまりの大敗で家康は、自分のふがいなさをあらためて知り、二度とこのようなことがおきないよう絵師にその時を描かせた。
もし、万が一このような安易な行動をとりそうになった場合、この絵をみて、この大敗を思い出し冷静さをとりもどさせるよう家臣に告げているそうだ。

447px-Mikatagaharasenekizou.jpg

ここから徳川家康は大快進撃をすることになり、やがて江戸に幕府を開くまでとなる・・

つづく・・・
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