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2011.04.21 大阪城攻め
さてさて、日がだいぶ空いてしまいましたが、
私の独断と偏見で勝手に攻略しております、城攻めシリーズ第3弾、

大阪城

大阪城


豊臣秀吉の居城として名高い名城中の名城

姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられているほど、訪問した際のインパクトは尋常ではない。
まあ、個人としては姫路城のほうが好きですが、熊本城?
・・・いったことないっすww

さすが名城というだけあって広いw
大阪城地図

(よしよし、トイレは充実しているな(*^_^*))
私は、天守閣は上がったことはないのですが、昨年大阪城ホールで長渕のコンサートみましたw
今度暇なとき天守閣上がってみようw車で1時間w

行ったらわかりますが、堀だけでもかなり大きく、湖かと思うほど、塀はかなり高くほんと侵入させないような作りになっています。
良く、石川五右衛門(ルパンじゃないよw)寝室まで侵入できたなwフィクションだけどw

好例ですが、
閉館時間
午前9時から午後5時まで(最終入館は午後4時30分まで)
GW(4/28-5/8) 午後6:00まで

気になる料金ですが
大人 600円
(さすが大阪人、商売上手ですな)




攻略はシンプルです。
戦国時代以外の現代でも何度も攻められております。

たとえば、

ゴジラ

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ゴモラ(ウルトラマン)

img852_GOMOLLA6.jpg



・・・・・・・


フィクッションかよ!!!







冗談はさておき
もちろん大阪城が主戦場になったのは

大阪の陣
徳川秀吉率いる諸大名軍VS豊臣秀頼率いる浪人軍
時期は冬、夏とありますが、
冬では
徳川軍約20万と豊臣軍約10万との戦いで豊臣軍が優勢だったと聞くほど
なぜここまでの兵力差で優位に持って行けたかというと
まず下の布陣図を見てください。

冬の陣

見ていただくとわかるように、徹底した籠城戦を展開した。
なぜかというと、豊臣軍は浪人中心の寄せ集め集団であった。
もちろん、天下に名を知らしめた真田信繁(幸村)等もいましたが、
寄せ集めの集団だけに統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元と考えられたからだ。

そこで、二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城。さらに周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城にして籠城する作戦を取った。

時期も冬ということもあり
豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、圧倒的な兵力があだとなって次第に士気が下がり、さらに厳しい寒さが兵士の体力を減らしていき、なかなか堅固の大阪城攻めきれないでいた。

しかし、豊臣方も同じく兵糧に加え弾薬の欠乏や徳川方が仕掛けた心理戦、大砲で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、また豊臣家で主導的立場にあった淀殿も本丸への砲撃で身近に被害が及び、態度を軟化させて和議に応じた。

講和内容は豊臣家側の条件として

〇本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事。
〇淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事。

これに対し徳川家が

〇秀頼の身の安全と本領の安堵。
〇城中諸士についての不問。浪人の解雇、豊臣家の移封

圧倒的徳川有利の内容で話が進み、これで夏の陣は終戦した。

が!!

翌年5月にまたいざこざにより
徳川軍と豊臣軍が衝突してしまう。

和議による一部浪人の解雇によりこの時の豊臣家の戦力は7万8千に減少し、さらに丸裸にされた大坂城では籠城戦は不利で豊臣軍が勝てる要素が全く見当たらない。

夏の陣

布陣図を見たらわかりますが、豊臣軍は
玉砕覚悟の突貫を決行するのです。

その時歴史
(もうこの時点で主旨が変わってきていますねw)

「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」
と言われる程に真田幸村の快進撃が始まるのです。

「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。また家康本陣を守備していた藤堂高虎の一代記である高山公実録にも「御旗本大崩れ」と記され、藤堂勢は一応の応戦はしたものの、真田隊の勢いの前では効果無く、ほどなく家康は本陣を捨ててしまい、高虎自身も、家康の安危を確認できなかったと振り返っている。後に真田隊の猛攻を恐れ、家康を残して逃走した旗本衆の行動を詮議した

本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。しかし、最終的には軍勢で勝る徳川軍に追い詰められた。

しかし、幸村も人の子、たしか休憩中(近くの神社)ないし兵士の看病中に敵の奇襲にあい、お亡くなりになりました。
たしか、その後、徳川の兵士たちにすごい武将ということで髪の毛を軒並み抜かれたほど。

この一件により、真田の名は後世まで残り、江戸時代に真田十勇士とう小説ができ、宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。
かなりの人気が出たそうです。


かなり熱弁しましたが、
ここからは私の攻略考察
先でも述べていますが、かなりの強固なお城であり、徳川軍が堀を埋めたとおり
この堀を何とかしないことには話になりません。

私の場合、堀に船をいれ、陸と堀(水上)の下から攻撃を仕掛けようと思います。
(ほんとそれほど堀でかいんですって!)
もちろん船に屋根がないと集中砲火をくらってしまいますので鉄砲が防げるぐらいの鉄製の屋根が望ましいです。

そんなんで攻略できるか?と思いになられる方がおられるかもしれませんが。
たぶん無理でしょう。
本当の意はまさに相手の物資(弾、弓)の消耗が目的であります。

三国志の赤壁の戦いでは諸葛孔明が無人の船で30万本の弓を調達したと聞きます。
調達すること=相手は消耗なので
一石二鳥とはこのことでしょう。

戦国時代の主な戦死者は弓や鉄砲という飛び道具なので。
その物資を減らすことにより、戦局を有利に持って行けるのです。
飛び道具を持たない兵などただの的ですのでこちらは思う存分撃ち込みましょう。

次に豊臣軍は浪人の集まりです。
徳川軍に恨みを持っている人間、この戦で名前を売ろうとした浪人など様々いたに違いありません。
豊臣軍も徳川の大軍の前に少しでも兵士が欲しいと思っていたと思います。

では徳川軍から浪人を装って大阪城内部に潜入させてみては?
その潜入したものに莫大の地位と名声を与えることを約束すれば大抵は立候補してくるのではないでしょうか?
外がだめなら内部から。

徳川軍も真田幸村など調略していましたが、そりゃする相手が違うでしょw
かなり家康は幸村に恨みを買っていたのですから。

まあ、すべての攻略は不可能に近くても、堀の内部の橋の一つや二つ占領して、外部に待機している徳川本軍の足掛かりになるに決まっていますから。
中に入ってしまえばもうこちらのものというわけです。

まあ、考察するのは簡単ですが、実際戦場にいったらうまくいくかな@@;w

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