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浅井・朝倉連合軍を滅ぼし勢いにのっている織田信長は、周辺の敵勢力をすべて根絶やしにしていった。

朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、信玄がなくなったいま甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。

信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強ており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。


信長 『信玄亡き今、武田など、烏合の衆にすぎんわ!いまこそ武田を壊滅せててくれようぞ!』

信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。
しかも当時最新兵器であった鉄砲を3000丁準備していた。


信秀 『グハハハ!ついに我が同盟にも大量の鉄砲が支給されるということか!』
小姓 『いえ、夢まぼろしには一丁も支給されません。』

信秀 『そなの・・?ショボ―――(ll´д`)―――ン』

小姓 『信長様はまったくと言って良いほど信用しておりません。』

織田信勝 『いままでの行動でまだ織田軍に在籍することすら奇跡ですからねw』

小姓 『それ(鉄砲)よりも信長様より重要な役目を伝言言付かっております。
信秀たちは武田の騎馬隊をひきつけれるだけひきつけろということです。』

・・・・・さかのぼること半刻まえ

信長 『武田の囮(生贄)は信秀たちでよかろう』
小姓 『しかし、さすがに武田騎馬をひきつけるとはいえ、味方ごと鉄砲隊で一斉射撃するとは・・・w』

信長 『べつにいいよ。夢まぼろしだし。ハナクソ(σ- ̄)ホジホジ』

・・・・・・・




信秀 『信長様がこのわたしどもにそんな重要な役目を!感動の為涙が!!ヨョヨョヨョヨョ。+゚(ノД`)゚+。ヨョヨョヨョヨョ』
小姓 (泣いちゃってるよ・・・まさか生贄とおもってないだろうな^^;)

織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000とが決戦地が設楽原集結していった。
戦国時代、織田の画期的なアイディアの三段撃ちをでも有名な長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦いが幕を開けようとしていた・・・


つづく・・・
三方ヶ原の戦いで惨敗した、徳川・織田連合軍であったが、
間もなく信玄の急病に伴い武田軍はほぼ兵力を温存した状態であったが西上作戦が切り上げられ、武田軍は甲斐国に撤退することを決定。その道中で信玄は病死する。徳川氏のみならず、織田氏の危機でもあったが、結果として信玄の病死という幸運に恵まれて事なきを得た。


武田軍の勢力が弱まった事を感知した信長は、標的を浅井・朝倉にしぼった。

天正元年(1573年)7月、信長は3万の軍を率い再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を落とし始めるとまともに交戦もしないうちに越前に撤退を始めた。信長は逃げる朝倉軍を追撃し滅亡させた。そして全軍を浅井氏に向けた。

もはや長政に反撃の手段は無く、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が織田軍に囲まれる。しかし、信長は長政を高く評価していたようで、何度も降伏勧告を行った。裏切りを嫌う信長にとっては破格の案も出されたという。木下秀吉なども使者として送られたが長政は断り続け、降伏勧告は難攻していた・・・


小姓『秀吉さまも失敗に終わりました。なぜここまで降伏勧告をする必要があるのでしょうか?』

信長 『・・・・・』

信長 『だれか!だれかおらんのか!話術に卓越したものは!』

信秀 

クロロ『ぇぇぇっぇぇぇぇぇっぇ!!@@;!!』

織田信勝 (めずらしい・・勧告通知は命もあぶないというのに、裏になにかあるな・・・)

そして、信秀率いる夢まぼろしは浅井居城 小谷城へ入城した・・

浅井長政『しつこい!織田にくだるぐらいなら死をえらぶわ!』

信秀 ソワソワソワソワ

クロロ『???』

???『お兄様も、一気にせめてくればよいものを・・・』

信秀  キ・キ・キ・キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!

お市顔 『信長の妹のお市です。よしなに』

信秀  ポポポ(*゚Д゚(*゚Д゚(*゚Д゚*)゚Д゚*)゚Д゚*)ポポッ

織田信勝 (目的はこれだったか・・・・w)

お市顔 『長政様 一度降伏勧告の条件だけでも聞いて見たら・・・』

浅井長政『そ・・そうだな・・お市がいうのであれば・・』

信秀 『条件はひとつでございます・・・』






信秀 『お市しゃんにあんなことやこんなことをしてもらえれば・・・モジ(((*´ε` *)(* ´З`*)))モジ』

浅井長政 『断る』


浅井長政は降伏勧告には一切応じなかったが、お市と娘たちを織田に引渡し、自分は小谷城で自刃して、その生涯を終えたのであった。

一説によると、信長がこんなに降伏勧告をしていたのは実の兄弟でもあったお市をなんとしても救出したかったのが目的が有力でもある。


つづく・・・
三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康軍1万1,000人(うち織田信長からの援軍3,000人)との間で行われた戦い。

信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康の歴史的大惨敗かつ唯一の敗戦として有名な戦である。


クロロのあおりで徳川家康は全軍で浜松城を出発した。

信秀 『トホホwまさか武田と本当にやることになるとは・・;;しかも大軍w』
織田信勝 『武田軍の背後をついての奇襲作戦ですからね、さいわいこの土地は徳川勢有利と言うことですね。』
クロロ『だといいのですが・・・』

徳川家康『武田軍が背後をつき、武田兵たちが反転し攻撃準備する前にたたく!相手はいきなりの奇襲であわてふためて、兵達がばらばらになったところに信玄の首をねらうぞ!』

徳川家康『我々は鶴翼の陣でかこむぞ!』

鶴翼の陣・・・
両翼を前方に張り出し、「V」の形を取る陣形。魚鱗の陣と並んで非常によく使われた陣形である。中心に大将を配置し、敵が両翼の間に入ってくると同時にそれを閉じることで包囲・殲滅するのが目的。ただし、敵にとっては中心に守備が少なく大将を攻めやすいため、両翼の部隊が包囲するまで中軍が持ち堪えなくてはならないというリスクも孕んでいる。

家康は兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。

織田信勝 『この森をぬけると三方ヶ原ですね・・』

徳川家康『全軍前進!!』





しかしそこにはすでに反転していた武田軍が魚鱗の陣で待ち構えていた・・・・
魚鱗の陣・・・・
全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊(密集陣)を単位として編集することで、個別の駆動性を維持したまま全体としての堅牢性を確保することから魚燐(うろこ)と呼ばれる。
多くの兵が散らずに局部の戦闘に参加し、また一陣が壊滅しても次陣がすぐに繰り出せるため消耗戦に強い。一方で横隊を要素とした集合のため、両側面や後方から攻撃を受けると混乱が生じやすく弱い。また包囲されやすく、複数の敵に囲まれた状態のときには用いない。特に敵より少数兵力の場合正面突破に有効である。対陣のさいに前方からの防衛に強いだけでなく、部隊間での情報伝達が比較的容易なので駆動にも適する。

つまり三方ヶ原では現状こんな構図となっている。

新しいビットマップ イメージ

信秀 『どしぇぇぇっぇぇぇぇっぇぇぇ!!@@!!』

徳川家康『た・・武田め。よ・・よんでいたのか・・・?』

武田信玄『全軍、すすめ。』
その合図で、武田全軍は徳川・織田連合軍に襲い掛かった・・
圧倒的な兵数と甲斐の武田というブランド力に、徳川・織田の兵士達は恐れ身動きすらできなかった・・


信秀 『この混乱に乗じてにげるぞ!』
クロロ『わかりました。』

しかし・・・そのとき
一矢の弓が飛んできた・・・・

グサ!!
『ぐはぁっぁ!』


信秀 『だれだ!だれがやられた!?』

タケナカ 『ぐふぅ!ど・・ドジッちまいましたや・・』


・・・・・・・・・・


信秀 『撤退!』
タケナカ 『無視@@;!!』 
クロロ『おししょぉぉぉぉぉぉぉぉさまぁぁっぁぁぁぁ!!TT』
織田信勝 『いつからやねん』

タケナカハンベエ 戦死

武田軍の死傷者わずか200人に対し、徳川軍は2,000人の死傷者の徳川軍の一方的な敗北となった。
徳川家康はというと夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。
後の伊賀越えと並んで家康の人生最大の危機とも言われる。
尚、この時あまりの恐怖で脱糞したのも有名なお話

あまりの大敗で家康は、自分のふがいなさをあらためて知り、二度とこのようなことがおきないよう絵師にその時を描かせた。
もし、万が一このような安易な行動をとりそうになった場合、この絵をみて、この大敗を思い出し冷静さをとりもどさせるよう家臣に告げているそうだ。

447px-Mikatagaharasenekizou.jpg

ここから徳川家康は大快進撃をすることになり、やがて江戸に幕府を開くまでとなる・・

つづく・・・
比叡山を焼き討ちし、世間から目の仇にされた織田信長であった。
尚も、浅井・朝倉連合軍、石山本願寺、伊勢長島一向一揆衆、三好三人衆と交戦は続いておった・・

比叡山を焼き討ちされたことにより、信長との対立が先鋭化した足利義昭はついにあの大国にも書状を送っていた・・


甲斐 武田信玄

信長は武田氏とは信玄の四男諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせるなどして同盟を結んだが、
足利義昭の書状に応える形で信玄はまず翌元亀2年に織田同盟国徳川領国である遠江国・三河国に大規模な侵攻を行う
それにより、徳川Vs武田の戦いの幕が明けたのであった・・・

最大の同盟国である徳川を守る為、織田信長は援軍を送ったのであった・・・


信秀 『まさか・・我々が派遣されるとは思いもしなかったな;;』
織田信勝 『相手はあの武田ですからね。しかもこちら(織田援軍)は3000人』
クロロ『ガクガクブルブル』

援軍前夜
信長 『あの竹千代(徳川家康)!!あれほど武田のオッサンを怒らすなと言っておったのに!!』
小姓 『武田軍2万7000は現在猛スピードで1つあたり平均3日で城を落としており勢いづいております。(普通城落とすのに1ヶ月かかるみたいです)』
信長 『我々も現在敵に囲まれておるというのに、大軍は援軍には送れん!!』
小姓 『こんなときの・・・・・』
信長 『信秀~~!信秀はおらんか~~~~!!』

・・・・・・・・


信秀 『うちらこんなことばっかだな;;』
クロロ(まあ自業自得だとおもうが・・・)
織田信勝 『見えました。あれが徳川殿の居城 浜松城です』

浜松城入城

徳川家康『よくきたな・・ってこれだけかよ!!
クロロ『申し訳ないです。これが織田軍の精一杯でありまして・・・^^;』
信秀 『徳川軍の兵数はいかほどでしょうか?』

徳川家康『・・・・・・・8000ww』

信秀 『てめ~~ふざけてんのか!犬死にしろってか!!(`Д´) /』

織田信勝 『相手は2万7000、こちらはたったの1万1000・・・』

徳川家康『大丈夫、この城で篭城して、相手の物資を減らしながら攻撃していけば戦意は落ちるはず』

徳川兵『来ました!武田本隊です!!』

信秀 『ついにきちまったか・・・』
クロロ『ガクガクブルブル』

徳川兵『??武田軍!!浜松城を通り過ぎ西に向かっております』

徳川家康『やつら!!直接信長殿の尾張に向かうつもりだ!!』
徳川家康『ど・・どないしよう・・・・^^;』

信秀悪の声 『家康どん、このまま素通りさせて信長にやらせましょうや。戦ってもかてやしませんって』
クロロ(あおり将軍)『よっ!!武田のハゲの背後つけば、勝利は確実!徳川どんの株があがるってもんでっせ!』


徳川家康『よっしゃ~~~!!全軍準備をせぇぇぇっぇ!!これより全軍突撃だぁぁぁっぁぁぁ!!』

そしていよいよ、徳川歴史上大敗退のフラグがたった・・・・

つづく・・・・
織田信長は姉川の戦いに勝利したものの浅井・朝倉連合軍の軍事力に手を焼いていた。
また石山本願寺、伊勢長島一向一揆衆、三好三人衆等から同時に攻撃をされ、追い込まれていた・・・

いよいよ進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功した。

そして信長の怒りの矛先は浅井・朝倉連合軍を援護し、幾度の退避・中立勧告を出したにも関わらず、なおも抵抗し続けた比叡山に向けられた。


ついに歴史上類を見ない比叡山焼き討ちという大量虐殺がはじまる・・・

信長 『今日こそは、あの比叡山にいる、ボウズらに戦いの恐ろしさと言うものをおしえてやるわい!』

信秀 『それがしは、拙者の役目!!』
クロロ (坊主だと弱いと思い、志願したな・・・^^;)

信長 『すべてを焼き尽くせ!』

信長は
明智光秀、池田恒興、柴田勝家、佐久間信盛、木下秀吉、丹羽長秀 等織田武将を大量に前線に導入し、
約30,000という兵で比叡山を取り囲んだ・・
信長がいかに比叡山を憎んでいたか見てとれる資料である・・・


そして比叡山に火が上がり始めた・・・

織田信勝 『信秀様、信長様からは女子供すべて皆殺しと聞いておりますが、いかが致しましょうか?』

信秀 『うむ、できることであれば見逃そう・・・』

???『まてまてぇい!!』
クロロ『??』

180px-Yamabushi2.jpg
僧兵『ここから先は通さん!!仏の名の下に!!』

信秀 『@@;つよそうやんけ!!』

僧兵・・・法師武者あるいは武装した僧侶を僧衆、悪僧と同時代でいうが、それを江戸時代以降の「僧兵」と呼称

織田信長軍はこうして大量虐殺を遂行し、比叡山の軍事力は一気になくなっていった・・
これにより浅井・朝倉連合軍の戦力は衰退していくのであったが・・・
仏の象徴であった比叡山を焼き討ちしたことによって、織田信長は他国から敵対の目でみられるようになる・・

そしてついにあの大国が動き出す・・・


つづく・・・
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